FAで巨人に移籍した15人の選手たち(第5回) 清原和博編

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西武黄金時代の4番打者清原和博も最後は併用される憂き目に

FAで巨人に移籍した15人の選手の移籍前の成績と移籍後の成績の比較、ならびにその後の動向などについて書いているシリーズの第5回です。

第5回目は1996年オフに、西武からFA宣言して、1997年に巨人に入団した球界の番長こと清原和博です。

巨人への移籍の順序でいけば河野博文が先に来るのですが、河野はまた後日にしたいと思います。

巨人移籍後の清原は故障もあり、成績を著しく落とすことに

清原和博の年度別と球団別打撃成績は以下のとおりとなっています。

清原和博-生涯年度別成績

森祇晶監督の元で西武の黄金時代を築いた清原和博でした。特に秋山幸二デストラーデの3人が並んだ強力クリーンアップは、他球団の追随を許しませんでした。

ただ、無冠の帝王とも言われるようにタイトルの獲得は、西武、巨人、オリックス時代を通じてありません。西武時代は本塁打、打点の部門では、同僚のデストラーデ、秋山幸二、そして近鉄のブライアントにタイトルを奪われて、タイトルをとってもおかしくない数字を残しながら、タイトルとは縁遠い清原でした。

清原和博も、他のFA選手と同様に>長嶋茂雄監督の誘いで、巨人への入団を決意するに至っています。

1997年の移籍1年目は、打率こそ.249と移籍前年を下回ったものの、本塁打は32本、打点は95と上回った成績を残しました。それでも主砲に成長していた松井秀喜(打率.298・本塁打37本・103打点)と比較されたためか、あまり高い評価は受けなかった清原でした。

その後の清原和博は故障に悩まされるようになり、試合にも出れず、成績を落としていきました。そこで起死回生をかけて肉体改造に取り組んだ結果、2001年には自己最多となる121打点を記録します。

しかし、今度は肉体改造によって大きくなった身体故に、プレーにしなやかさも失われ、さらに故障がちな状態になってしまいました。

清原が落合と広澤を押し出したように、清原も押し出されることに

そんな中、2003年にヤクルトの主砲であったロベルト・ペタジーニが移籍してきます。ペタジーニもポジションでは1塁でしたが、その年は外野に回ることになり、清原は一塁として出場しました。結果、打点こそ68と少ないものの、打率.290、本塁打26とまずまずの成績を残しました。

ところが2004年は清原は、ファーストでペタジーニとの併用となり、出場試合数を減らすこととなりました。2003年には外野を守っていたペタジーニが膝を痛めて、100試合の出場ながらも31本ホームランを打っていたため、その打力を活かすためにファーストに戻ってきたためです。

そのペタジーニは2004年で巨人を去りましたが、清原が2005年にはケガで離脱した後、正捕手の阿部慎之助を一塁手として起用します。

そして、その年に堀内監督との仲違いが決定的になり、シーズン中に球団から戦力外通告を受け、12月に正式に自由契約となってしまいました。

清原和博自身の言動にも問題がなかったわけではないのですが、最後は寂しいカタチで巨人を去ることになりました。

清原が移籍してきたことで、落合博満が他球団へ移籍し、広澤は外野もしくはベンチという状態が続くことになりました。しかし、最終的には、清原もペタジーニとの併用されてしまいます。そして巨人は清原を12月に自由契約とした後に、年が明けた1月にファーストのレギュラーとしてイ・スンヨプを獲得しています。

巨人では他球団とは比較にならないほどのプレッシャーと激しい競争が

もちろんプロなので、結果を残せなければ、ポジションが無くなるのは鉄則ではあります。しかし、巨人では他球団よりもその厳しさが際立ちます。FAで巨人に移籍した選手は、過去にどんな実績があっても、レギュラーポジションを失った瞬間に、居場所がなくなり2軍で過ごすことになることも少なくありません。

しかし、他球団では功労者には、「代打の切り札」という立場が与えられ、打席に立てば、一際大きな声援をもらいます。広島の前田智徳阪神の桧山進次郎などのように。

そして巨人では内部の競争だけでなく、外部からの圧力も強く、>多くの賞賛とともに多くの批難もうけることとになり、それも清原和博を苦しめたようです。

巨人にFA移籍することは、大きな注目を集め、結果を残せば大きくもてはやされますが、結果を出せなくなった時には、大きな批難を受けること球団を去らざるを得なくなることを念頭に置いておく必要がありそうです。

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